やさしい世界

*こちらは2017年2月発行同人誌[to tell a story-tell a tale]に収録済です。通販はBOOTHをご利用ください。

 トパックは「半獣」を見るのは初めてだった。

 大人たちは「半獣」という言葉を使うとき、決まって嫌そうな顔をする。中には、震え怯えながらその言葉を口にするものもいる。たいていそういう手合いは女たちだ。武器を手に取れず祈りも多くを知らないような、神聖騎士団に仕えることもままならない平民の女たちだった。
 けれどもトパックは「半獣」という言葉の響きに強く惹かれていた。理由は知らないし、あまり気にしたこともない。
 彼ら「半獣」という存在のこともよく知らなかった。
 ただ、大人たちからは嫌われており、奴隷という自分たちとは存在そのものがして違う(そもそもその違うという意味をよくはわからなかったのだが)、ベオクに遥かに及ばない下等な(大人たちは決まってそういう言い方をした)ものなのだ、ということを「知って」はいた。
 けれども、では、「半獣」というのはいったいどういう化け物なのだろう。口が耳まであり、目が三つも四つもあり牙は地面に届くほど長く見たら最後目がつぶれてしまう、そんな怪物なのだろうか。よくある英雄譚の、勇者に打ち負かされてしまう化け物のような。けれどもそれはまた違うような気もしていた。ともかくトパックという元老院議員有力候補でもある某家の嫡子は、「半獣」という存在に好意的ともいえなくもない感情を日々もてあましていた。

 いつものように、嫌々受けていた(当然、内容などに頓着などはしていなかった)家庭教師の授業を抜け出したトパックは、自慢の駆け足で廊下を一直線に走っていた。
 すると、曲がり角から突然影が現れた。第一目的地の厨房から漂ってくる匂いにすっかり意識を奪われていたトパックは勢いを止めることなどはせず、当然の結果としてその影に威勢よくぶつかってしまう。

「いってーー!なんだよ!一体全体、なんだってそんなデカい図体して目の前歩くんだよ!」

 対象をよくよく確認もせずに怒鳴り散らしてから、さてハっとしたように少年は「相手」を確認した。大きい身体をしている男だった。

「こ、これは、坊ちゃん、申し訳、ございません……お怪我は、ありませんか」

 けれどもその大男は、トパックと目を合わせようとせず、巨躯を屈めて、どころかトパックの足元をしきりに眺め、おどおどとしている。
 トパックは不思議な心地で見つめていた。下働きの男たちともちがう。当然だけれども、荒っぽくて気のいい兵士たちとも違う。面倒な言葉と面倒な祈りばかりをこれ見よがしに繰り返す助祭とも違う。よくよく見ればびっくりするくらい大きな体を窮屈そうに屈めて、逞しく盛り上がる背中や腕の筋肉とは裏腹に、どこか怯えたような男。
 その、うつむいたままの顔の両脇から生えているものと、尻のあたりにあるもの。トパックの大きな目はその二つの存在を確かめんとするように、くるくるとよく動いて観察した。
「半獣……おまえ、半獣か?」

 半獣、という言葉に大男はびくりと肩を震わせ、トパックの足元から素早く離れた。顔は伏せたままで、そのままでは床についてしまう、とトパックは思った。

「あ、いや、顔、そんなにつけなくてもいいって……床、きれいなわけじゃないし」

 それでも、男は決して顔をあげなかった。背中の盛り上がった逞しい背筋は、時折おびえるように震える。トパックは首をかしげた。なんでこの大男はこんなにおびえているのだろう。

「怪我なんかないよ。そもそも、こっちが悪かったんだ。あやまるよ、ごめんな」

 少年は譲歩に譲歩を重ねた。それでも男は決して顔をあげないものだから、トパックは盛大なため息を小さな体中から吐くような真似までした。
 トパックはベグニオン貴族の嫡子にしては珍しく、そこまでされてしまうとかえって気分が悪くなるタチだった。だからこそトパックの両親は家庭教師などという監視役を我が子につけ、その性根からしてベグニオン貴族に相応しく、将来は元老院議員の一員として不足のない歳児を育成しようと必死だった。けれども生憎とトパックはそういう「貴族らしさ」というものをうっとおしく思っており、何より先天的にモノの考え方が両親とは違っていた。それを、母親は忌々しげに父方の祖父の血筋だなどと父を影で罵っていることを、トパックは一度目の当たりにしていた。それから、トパックは母親とあまり顔を合わせてはいない。

「だからさ、顔上げてくれよ。何かおいらが悪いみたいだし」

 貴族らしく「私」や「僕」と言えという母の苦言に反したそういう物言いは、下働きの同じ年頃の少年から覚えたものだった。
 トパックが何とか男の顔をあげさせようと彼なりに努力をしてみるのだが、しかし見事な体躯を持つ、緑色の毛並みが美しい(とトパックは純粋な感想を抱いていた)大男はまったく顔をあげようとはしない。流石にこれには、腹が立ってきた。もともと嫌な授業を受けていてかつ腹が空いていたものだから、機嫌はよいとはいえなかったのだ。

「なんだよ、半獣の奴隷っていうから、おいら会えるの楽しみにしてたんだぜ?顔くらい見せてくれてもいいだろ。名前だって、知りたいのに、それじゃあ話もできないじゃないか」

 論理的だとはいいがたいトパックの言葉に、緑色の長い耳がぴくりと動く。男は、のっそりと顔をあげた。視線こそうつむいたままだが、ちらりと視界の端に認めたそれは精悍といえる立派な顔立ちだった。悪いけれども、自分の父親や叔父なんかより、ずっとまともな顔をしているなとトパックは思った。

「奴隷と口をききたいなどと思ってはいけません。坊ちゃんと私は違うものです。私は半獣で奴隷です。ですから、そのようなお考えは持ってはなりません」

 口早に、そして囁くような低い声で男は言うと、顔を伏せたまま立ち上がり、もう一度深々と頭を下げた。

「ともかくも、ご無礼大変申し訳ございませんでした。この処罰は必ず、受けます。ですから」
「ちょっと待てよ!」

 トパックは叫んだ。けれども男は申し訳ございません、ともう一度告げると、すばやく背を向けて足早に立ち去った。その間中、男は決して顔をあげなかった。


 新しく買った奴隷を母親が厳しく折檻し、トパックの乳母でもある中年女性が止めに入らねばその奴隷は死んでいたかもしれない、という話をトパックが聞いたのは、それから数日経ったある日のことだった。話したがらない見習いコックを無理に説き伏せ聞き出した。彼は、この広い屋敷で数少ないトパックの「友人」だった。

 その時にトパックは考えた。奴隷は正直にあのときのことを話したのだ。隠していれば、あの場には使用人も兵士も誰もいなくて、バレなかったことを、しかもトパックですら不問にすると宣言したことを。そうしてあの奴隷は罰を受けた。

「なんだよ、それ」

 自分の部屋というにはあまり落ち着かない場所で、トパックは小さく呟く。

「意味がわかんねえ」

 腕を組み、子供らしい仕草で呟く言葉には、だけれども強い決意がありありと伺えるものだ。そういうことを、誰もこの場にいないからこそ呟ける言葉であることを悔しく思うような少年は、既に意を決していた。
 具体的な算段はないし、何か明確な方法もない。けれど、とりあえずそれを実行するにあたっては色々なものが必要だ、とトパックは思った。決して、思い立ったからすぐさま行動に移せる部類のものでないということくらいは想像がついた。そこで思い出したのは、あのやたらと自説を述べたがる若い家庭教師の男の、神経質な顔だった。彼は半獣という言葉をあまり使いたがらなかった。

 この部屋は、この家はトパックにはやさしかった。
 トパックという、将来をまだ期待されている貴族の子供には、食べるものも着るものも、眠る場所も、何一つ不自由などない。
 だが、トパックはそんな自分を取り巻く現状に、漠然と疑問を抱き続けていた。何より理屈ではなく息苦しかった。作法や言葉遣いや知識は別にいい。けれども、考え方そのものを押し付けてくる両親や親戚や司祭のことは、感覚的に嫌いだった。
 そして日ごろ抱き続けていた疑問は、一人の奴隷との出会いにより確信へと繋がった。半獣という存在と、奴隷という存在のいびつさ。転じてそれがこの帝都シエネの歪みであり闇であるというところまではいかずとも、あんな屈強な男が、後から聞いた話ではとりたてて罪を犯したわけでもないのだという、まともそうな男が奴隷である理由が、トパックには想像もつかなかった。

 そして思いつきざまに行動をするトパックにしては珍しく、彼は計画的にものごとをすすめた。その子供の努力の一端を担ったのは、トパックが一方的に嫌っていた気難しい若い家庭教師であり、トパックにとってその日から優れた協力者へと変じた男だ。
 心を入れ替えたかのように勉学に打ち込み王立図書館へと通いたがる嫡男の様子を、実に貴族らしい価値観をもつ両親は好意的に受け止めていた。だから、その息子の勉学の内容などは、彼らにとってはどうでもよいことだったのだ。彼らの関心は如何に元老院議員の関心を惹くかにあり、いかに自分たちの存在が彼らにとって有益であるかを知らしめることにのみあった。


 どこぞの貴族嫡子が奴隷とわずかな使用人と共に出奔し、ひとしきりベグニオン帝国首都の一角を騒がせた事件が起きたのは、少年が奴隷と出会ってから一年ほど後のことである。