Para quie'n doblan las campanas

*こちらは2017年2月発行同人誌[to tell a story-tell a tale]に収録済です。通販はBOOTHをご利用ください。

 ガドゥス候ルカン。
 代々ベグニオン帝国は神使に使えた元老院議員筆頭のガドゥス家に生まれ、代々元老院議長や大司教などを輩出してきている名門中の名門だ。帝国内にその名を知らぬものはなく、事実ガドゥス家の男児はえてして信心深く、また優れた政治力を持つ人物が多かった。資産も豊富であり、帝国内に幾つも鉱山や独自の流通ルートを持ち、またガドゥス家に連なる傍系の中には商売を営むなど才覚のあるものも多い。
 ガドゥス候が嫡子として、女神の祝福とともにこのテリウスに生を受けたルカンは、若い身空よりその敬虔さを買われていた。女神の教えを幼きころより自らの道と定め、折り目正しく、何より潔癖だった。
 時に辛辣な言葉を遠慮せず吐くそれは、その性根の潔さゆえのものだった。高潔さと傲慢さも年若くして同居してはいたが、それもまた将来元老院議員という帝国の政の要を期待される男児として、歓迎された。
 ゆえに弱冠十五にしてマナイル大神殿に通い、大神殿長であり大陸の信仰の中枢たる枢機卿とも目通りを許されていた。枢機卿は、女神の代弁者神使に次ぐ高位聖職者であり、政治的な権限は元老院議長と同等でもある。
 ルカンはその敬虔さゆえに、女神の奇跡の具現たる光魔道や聖杖の扱いにも優れ、多くの祝福を成してもいた。
 将来を約束された若者は、周囲の期待に当然のように応えた。それは女神の信徒としては当たり前。ルカンは、そういう態度を憚らなかった。
 敵も多くいたが、同時に味方も多かった。やや年配のヘッツェル卿とは昔馴染みであり、学び舎を共にした仲でもあり、数少ない信頼できる相手であった。ルカン以上に敬虔で気弱ではあるが、性根は、元老院議員候補としては善良すぎるくらいである。そういうヘッツェルという年上の男のことを、ルカンは嫌いではなかった。

「今……なんと、おっしゃられましたのか…」

 そう、口にするのがようやくだった。喉の奥に舌は張り付き、痛みを伴うほど干からびているように思えた。言葉と言葉の間に呑み込む唾の音の、なんと大きなことか。
 それは、皇帝神使を前にしているからではない。
 ありえぬ事態を、理解出来ないからだ。

「ラグズ奴隷を解放する、と言った」

 冷徹な声に聞こえた。威厳であるとか、畏怖であるとか、そういう類の感情ではないことに、まずルカンは驚いた。

「彼らは故なく呪詛などに縛られ、自由を奪われている。同じ女神の子らであるというのに、一方的に彼らを拘束する権利など、ベオクにはない」

 続けて今度は、耳を疑った。
 ミサハがそう強く願っていることは知っていた。だが、まさかという思いがあった。民意なくば動くまい。そういう確信が、ルカンにはあったからだ。
 現に、皇帝であり神使でもあるミサハは、ベグニオン帝国最高権威ではあるがそれだけの存在だ。実際に政に関わるわけでもなく、時折「女神の言葉」を大神殿バルコニーより民に授け、彼らに笑みを向け手を振るのが仕事だ。そうして民の心を掌握していさえすればよいのだ。民の支持があるからこそ、ある程度の勝手も元老院や枢機卿は許していた。
 まっすぐな冷徹にも見えるまなざしでルカンを見下ろすは皇帝神使ミサハ。ことさらに民に人気の高い神使である彼女の言葉に、彼女をあがめる民が逆らえるはずがない。だが民は、ラグズを半獣と蔑み同時に恐怖している、民はどうなるのか。
 あれらが隷属を強いられる所以を、隷属を強いるがゆえに共存が可能であることを、皇帝神使は知らぬのか。
 崇拝する神使が理不尽な法を公布したとしても、民は笑顔でそれを受け入れざるを得まい。
 だが、実際に受け入れる、わけがない。受け入れられるわけがないのだ。半獣恐るべしという認識は、何もただの偏見にとどまっているわけではない。
 神使が知らぬ多くの悲劇。逃亡奴隷が帝国内の村落を餓えにより滅ぼした話など、何度も耳にしていた。滅ぼさずとも田畑を荒らし家畜を食らい、酷ければベオクも食らう。そういう獰猛な側面を持つあれらを解放するなどと聞けば、悲劇を知らぬ都市部の者は兎も角、城壁外に住まうものや農村に住まうものはどうなるのか。彼らを守るために派遣せねばならぬ軍は、その維持費は、いったいどこから出てくるのか。金銭は、地中から沸いて出てくるわけではない。
 混乱するルカンの脳裏にはさまざまな言葉が次々と浮かび、そして灰のように音もなく崩れてゆく。懸念は懸念を呼び、不安はただただ増幅するのみ。何を言い出したのか。まずその現実を、神使ミサハの言葉を、認識するだけでルカンの信心は暴風の中たたずむ枯れ木のごとく頼りなく揺らぐ。
 それほどの、理解しがたい言葉を、よりにもよって女神の代弁者たる神使から聞くことになろうとは、ひとりの敬虔な女神の信徒たる男には想像出来るわけもなかった。

「…お言葉ですが、皇帝神使ミサハ。彼らが隷属を強いられしは、故なきではありませぬ。古の戦、二つの種が雌雄を決しようとした戦いの結果」
「存じておる。だが、それは、一体如何ほどに昔のことか。そのようなものに、魔道的に永劫縛られる理由は、ないであろう」
「敗者は勝者に従うという、彼らの唯一絶対の律に従っているだけではありませぬか。第一、そのようなこと…民は望んではおりませぬ」
「従わせているだけではないか。それこそ、女神に対する背信行為。誰よりも敬虔なわが民が、背徳行為を望むと、言うのか」

 互いに、一歩も譲らぬ言葉の応酬だった。強き信念めいたものを神使ミサハは双眸に宿し、挑むように元老院議長を睨む。
 これ以上の言葉は無意味と思えるほどに、取り付く島もなかった。以前より、政に口出しをするようになっていた。ゆえに、枢機卿と何度も密談し、ろくに政も知らぬ小娘に口出しをさせぬようあらゆる手段を講じてきた。そうせねば、この巨大なるベグニオン帝国の礎が揺らぐ。そう思えばこそ政敵同士とはいえ、手を取り合う手段を互いに選んだ。
 そもそも、神使という存在は、象徴だ。女神の声を聞けるものとして、女神の代弁者として、ただ民を導くべき存在である。  そして皇帝とは最高権威。つまり、皇帝神使であるミサハが何かを言い出せば、それがたとえ非であろうと、常道を逸していようと、是というより他になかった。
 そうならないための元老院であった。だが、近頃ミサハは元老院を無視しだしている。勝手な行動が目に付く、と言い出したのは枢機卿だった。彼は元老院とは政治的には対立しているが、皇帝神使という強すぎる権威に対する諮問機関的役割をもつという意味では元老院と同一だ。

「……ですが…解放された彼らは、どうなさるのですか」
「彼らもまた、女神に生を受けしもの。私は彼らを信じる」

 私は、彼らを信じる。

 きっぱりと、ベグニオン帝国最高権威・皇帝神使ミサハは、断言した。

 喉元までせりあがる言葉も、疑念も、あらゆるものが、消失した。
 同時に、足元がゆっくりと時間をかけて瓦解してゆくような衝撃を受けた。

 この神使は、何も考えてはいないのだ。
 ただただ、飼われている犬が可愛そうだと鎖をはずすだけなのだ。その犬が、人を食い殺す狂犬である可能性は考えない。まして、飼い主に食らいつくなど、想像がつかないというのだ。

 何を根拠に、あれを信じるというのか。
 何を根拠に、あれが危害を加えぬなどと言えるのか。
 何を根拠に、二つの種が同一の場所に対等な条件で集い混乱が起きぬなどと言えるのか。

「何ゆえ、ベオクとラグズは共存の道を選ばず、互いに国を分け、今の国家郡があるのでしょうか……それを」
「それはベオクがラグズを駆逐し、追いやったからであろう。隷属を強いられるを良しとせず、彼らは自らの国を興すことを選んだ」

 ルカンはただ無力に頭を振るしかなかった。驚愕のあまり皇帝神使の顔から視線を外せなかった。揺ぎ無き意志を宿す双眸はやはり冷酷な光を宿していると思った。

 ラグズの国の現状を、理解しているのか、この小娘は。力こそ全て――そういう絶対律が支配する世界は、弱者はただただ怯え縮こまるしかない。過去の歴史を振り返れば、ありえぬ理由で戦を起こし、多くのベオクを虐殺してきている。国までは滅ぼさぬも、村落などは何度も滅ぼされている。

 相容れぬのだ。ベオクと、ラグズは。

 その証拠に、二者が交わった結果生まれるおぞましき子は、親の力を奪い歪んだ生態を作り出す。それは呪詛にも思える事象だった。女神に祝福されぬもの――印付き。本来交わるべきではないのだと、そういう歪みをもって警告されているではないか。
 ようやくあの凶暴な種に怯えず暮らせるようになった、祖先が重ねた犠牲と労苦を、何も厭わず簡単に失くすなど、物を知らぬとはいえよくもまあそこまで傲慢な物言いが言える。
 皇帝神使が是といえば民は是としか言えぬ。否定など出来るわけがない。どれほどに傲慢で理不尽な言葉であり宣言であろうと、民は笑顔でそれを受け入れるであろう。
 だが確実にそこに歪みは生まれる。歪みは音もなく広がる。
 そしてそれは静かに帝国という礎を崩してゆく――巨木が内側から朽ちてゆくごとく、知らぬうち広がった病巣はやがて巨木を倒壊させるであろう。

 ルカンは力なく、何度も頭を振った。

 元老院議長などという己の地位も権威も、何もかも無力だった。信仰も、奇蹟も、何もかも無意味だった。祈る言葉すら、その時のルカンの中にはなかった。
 知りつつも、だが否定し続けた元老院の腐敗。役人は金を欲しがり、結果賄賂が横行する。商人は巨額の財を築き、富は都市部に集中する。貧困層は日々食うものすらままならない。そういう姿を、ルカン自身も目の当たりにしていた。
 ガドゥス領はそうでもない。だが新参の元老院議員バルテロメが収めるクルベア公爵領など酷いものだった。華美な装いを好みまた奴隷もその美醜によって価値を決めるというかの公爵は、民の血税を夜毎の晩餐会や己の装いのために使い尽くすという。特に光魔道や聖杖の扱いに優れるわけでもなく、家柄も二流だったかの男が台頭出来た理由はただひとつ。クルベア公爵領から大量に算出される銀に由来する金だった。
 ルカンはバルテロメという男が嫌いだったが、それでもそれなりの政治力だけはあると感心もしていた。そして野心家でもある。ガドゥス家よりもさらに歴史の古い家柄のヘッツェル卿などとは正反対だ。だが、そういう野心家はまだ扱いやすい。

「枢機卿もそなたと同じことを言う。だが、私は私が間違えているとは思わない。やがて我が民も、我が正しさを理解するであろう」

 ミサハの声が遠かった。これが、神使か。この程度の、小娘が。

 ルカンがミサハに返す眼差しそれには、わずかながら侮蔑が含まれる。
 それは、ひとりの敬虔な男が信心を喪った、瞬間でもあった。