吐息が、重たく空中に浮かぶさまを、ミカヤはじっと見ていた。それは、ミカヤ自身の中にある、僅かなためらいを見透かしたかのように、だいぶ宙にとどまり、やがてふっつりと掻き消える。
―――偉そうな事ばかりをいって、けれど、結局、一番脅えているたのは、私。
外套を胸元に寄せながら、ミカヤは眼前の、闇夜の雪景色に、視線を置き、遊ばせる。白と蒼と闇色の世界。静まりかえった、肌を裂くような張り詰めた空気。
その中にあって、けれども今ならば、己を見失うことなどはない、と思えた。
崩れかけた砦を囲むかがり火の、ぼんやりとした明るさが、雪を伴う風にあおられ、揺らめく。
言ってみればなんということはなかった。けれど、告白がひどく、ミカヤを疲れさせたのも事実だった。深呼吸をして、ミカヤは記憶の糸を、ゆっくりと、たぐりよせる。自身に揺らぎなど、ないように。もう二度と、迷わぬように。
ずっと、拒絶されるとばかり考えていた。というよりも、それ以外の発想が出来なかった。
それは、「印付き」であるということがすなわはち、それだけで、存在するだけで害悪であると、言われ続けてきた。
だから、ミカヤは、ミカヤが「印付き」であることを知り、それでも側にいてくれたサザだけが、世界で唯一、寄り添える相手なのだと、思っていた。
「そうかもしれない、と、思っていたよ」
恐る恐る告げるミカヤを、この上ない穏やかなまなざしで、ペレアスは受け止めた。
そして、そう答え、ゆっくりと微笑む主君の顔を見るや否や、ミカヤの中でわだかまっていた、世界に対する圧倒的な怯えと、今を失うことの恐怖と、何をなせばよいのかなど判断のつかぬ状況の中、混迷していた思考が、一気に、溢れた。呼吸をするように、涙を流していた。
熱いものが、頬を流れ、落ちる。視界がぼやけてもなお、穏やかに笑うひとは、それでいい、というように頷いた。
「だからといって、何も、変わらない。ミカヤがデインに必要なことも、皆がミカヤをたたえることも……僕が、ミカヤがいるから、こうして生きていることも」
自分に対する、言葉ひとつひとつを耳にするたび、脅え凍えていた心が大きな音をたてて、生まれ変わってゆくようだった。そして、新たに生まれた感情は、決してミカヤを脅えさせず、ただただ温かなもので、恐怖に凍えるその胸のうちを、ゆっくりと満たしてゆくようだった。
「可能性を、考えていたんだ。なぜ、二つの種族が、この大陸に住まうのか」
「なぜ、二つの異なる種族が、禁忌となされている事をした結果、いずれにも属さない子が、生まれることが、できるのか」
「なぜ、そういう可能性を、女神アスタルテは残したのか」
「禁忌ならば、禁ずるのではなく、不可能にすればよかった………けれども、その、可能性を、女神は残された」
自身の考えを告げるペレアスの表情に、脅えのそれはない。聞くものに安堵を覚えさせる、穏やかな声は、しっかりとしていた。言葉そのものが、まるで鷺の民のそれのように、力を持っていた。
以前とは――誓約を吐露し、涙していた先ほどとは、まるで別人だった。
デイン軍の総大将は己だと、ミカヤに、タウロニオに宣言し、魔道書を携えてきた主君は、実際見違えたようだった。
己のやるべきこと、なすべきことを知るものの眼差しで、次々と指示を出していた。ゆえにミカヤは、あえてその心に触れよう、とは思わなかった。必要など、なかった。
印付き。以前その言葉を口にした主君は、穏やかな中にも、怯えと蔑みを含んだ、デイン人らしい――ベオクらしい考え方を述べていた気がする。
何が、この若き王の中で変革したのかはわからない。だが、以前と同じ「印付き」という言葉を口にする様子は、以前のそれとは全く別の、その名をもつものに対する敬意のようなものまで、垣間見える。だがミカヤは、その疑問を思考することなどは、しなかった。そのような余裕などはなかった。
「禁忌に触れる懐疑を持ち、その意図を探ろうとする――それもまた、女神に定められし律にそむくもの」
「けれど、……この状況で、女神の恩寵たる国王が何を信ずるべきか。それは、女神への敬虔な祈りではなく、自らが愛すべき民と、自らが治める国のこと。他に、ない」
女神の名の元に、デイン第十四代国王としてその座に就いたペレアスであったが、その人となりは、敬虔な祭司ではなく、世の理に疑問を持ち、理由と存在を探るべく、無限の知識の闇に身をゆだねる、闇魔道士だということを、ミカヤもまた、先ほど知ったばかりであった。
すれば、自己の理念思考を説くさまに、情熱のようなものが垣間見えるのもまた、理解に苦しくはない。気弱さと情けなさばかりが目立ってはいたが、時折交わす言葉に、はっきりとした知性、学識がある者が持つ理念のようなものが伺えることもまた、ミカヤのみならず、皆がよく知ることだった。
「懐疑に対する答えは、禁書といわれる類の書を持ってしても結局、出なかった。けれど、少なくとも、ミカヤ、君は、ただひとつの、デインの希望だよ。それは変わらない」
変わらない。その言葉を聞く度、自分の心が強くなる気がしていた。漠然と、ペレアスならば自らの血の事を告げたところで、裏切るようなことはあるまい、と思っていた。むしろ、この、絶望に面した状況であればこそ――ペレアスが、ミカヤとその存在を、デイン軍を存続させデインという国を存続させるという彼の望みにおいて、必要不可欠だ、と知っていればの、狡さもあった。
だが、そのペレアスがミカヤに対し告げる言葉は、ミカヤの想定していたものとは、まるで違っていた。それは、いたずらにミカヤをひきとめ、慰めるための同情心からくるそれではない。持論に裏打ちされた、強い、揺ぎ無い信念の元の、言葉だった。
「例え君が印付きであっても、何も変わりはしないんだ」
「共に、戦おう。そして、生きるんだ。一人ではなく、皆と、共に」
「二つの血を持つ祝福の巫女・ミカヤ。やがてその存在は、二つの種を結びつける福音となるべき光。だからこそ、ハタリの客人は、白鷺の王子は、今、ここにいてくれる。僕は、そう考えている」
突如来訪したニケとラフィエル、そしてミカヤに付き従うオルグを、自らの客人と称しこの場に留めおいたペレアスの意図は、つまり、そういうことだった。ミカヤを信頼していればこそであり、更には、ラグズに対する偏見を自己の中で是正したと同時に、印付きへの認識も、学識に通じるものらしい理由で、いつの間にか受け入れていた。
「同じ紅の紋様でありながら、禍々しさは微塵も感じられない―――きれいな、形をしている」
ミカヤが差し出した、手の甲に刻まれた、二つの血を結ぶ、その証。それを、デインの若き王は、慈しむような表情と共に、美しいものだと、言った。
手の甲を、そっとさする。今までは、これを、禍々しい、見たくもない――諸悪の根源のように思っていた。美しい、などと、一度も思ったことなど、なかった。
「共に、生きる………そう、私は、皆と……デインの、この国の人たちと」
言葉を繰り返すたび、心は強く、生まれ変わる。
「共に戦い、共に、生きる。皆が、いて、私が、いる。私は、……私は」
決して一人ではない。何度も繰り返された主君の言葉は、それ以上の意味など、含まぬであろうこともわかっていた。むしろ、それでよかった。
純粋に民のため在ろうとした人の、やはり、純粋に民を想う心から来る言葉だ。そして、だからこそ、これほどに強く胸に響き、魂を震わせる言葉となりえたことは、よくわかる。
それは、ミカヤがどう在るべきか。それをはっきりと示した、王の言葉だ。そして、それはまた、ミカヤの最も望むものであった。
「私は、暁の巫女・ミカヤ。奇跡は待つのではなく……この手で、勝ち取るもの。何故……忘れていたの」
闇の尚深い、眼前の黒々とした景色を貫く、金色の瞳に、光の炎が宿る脳裏に、ネヴァサを取り戻した折の熱狂と、翻ったデイン王家の旗が、蘇る。黒き竜と剣を象った紋章。掲げた旗は、陽光にきらめき、そこに輝ける未来を、確かに示していた。
予感ではない。錯覚でもない。それは強き、信念が先の栄光。
「負けないわ。例え、大陸の英雄アイク……あなたが、いいえ、世界がデインを滅ぼそうと、その牙を剥こうとも……私は、私と、私と共にあろうとしてくれる人々と、私の信じるところの人たちを守るため、戦う」
ひとしきりの風が、地上の雪をさらい、粉雪を吹き上げる。かがり火がゆれ、だが、月は煌々と静まり返った地上を照らしている。
暁の巫女と呼ばれ――やがてデインの娘と謳われ、王国を継ぐものが、まさに、地上に生まれ落ちた、瞬間だった。