雪をゆったりと溶かしてゆくかのような早春の光は、心地よい。そういう春の光を、デイン王国は久方ぶりに浴びていた。
ようやくに雪解けの水の音が、ネヴァサ市内にも聞こえるようになる。穏やかな日差し、そして、喧騒。人々はせわしなく動いている。それは平和の証に、違いない。戦いは、終わった。
アスタルテの奇跡――生憎とそう呼ぶしかない事象が、時を止めた。それは幸いであったのかもしれない。未曾有の戦を、嘆き女神は全てを止めたのだ。
負の女神ユンヌの加護で辛うじて生き残ったものたちは、目の前で命が凍りつき世界が停止してしまえば互いに協力するしかなかった。なれば、襲い掛かってくるものがあった。彼らは、自らをアスタルテの尖兵と名乗った。
そうなってしまえば、国家も、ベオクもラグズもない。そのような戦いを経て各々が故郷に帰還し、デインより遥かに温暖な隣国クリミアなどは若葉に包まれていることだろう。
全てが終わり、そして、全てが始まる。多くの問題を孕みつつも、デイン王国もまた、遅い春を迎えながら新たなる一歩を踏み出そうとしていた。
「それが、陛下ご自身の決断というのであれば、私どもにお引き止めする事などは、出来ますまい」
ようやく口にした言葉だった。喉の奥が、塩水でも飲んだようにひりついている。老将タウロニオの心はまるで鉛のようだ。その鉛のあまりの重さには、この老体は果たして耐えられるのだろうか。詩人ならばあるいは、この心情をより克明に、表現出来るのか。だが生憎とタウロニオは詩人ではなく、また、詩を嗜むような風流さを持ち合わせてはいなかった。
そういうタウロニオの言葉に、現デイン国王ペレアスは僅かに笑ってみせた。
「何も、そうすぐにというわけではないよ。それは、不可能だ。自らの都合でのみ、退位する――そういうことは、この国をますます混乱させるだけだ。だから、暫くはすべてを伏せる」
自嘲気味に笑うその姿に、いうべき言葉などは多くはなかった。この若き王は、これで頑固なところがあると、身近に共に戦いを潜り抜け、タウロニオは痛感していた。彼に最も近しかった皇太后アムリタも、同じことを言うであろう。
こういう言い方をするペレアスに、何かを言うことは、無意味だった。
「そう、ですか」
「だが何れ、この国はそういう結論を自ら導き出す。デインの民の気質は、英雄を王たらしめたいと願うだろう。英雄は私ではない」
諾と答えるしかすべなどはなかった。ミカヤという良くも悪くも神がかり的な存在あればこそ、決して状態がよいとはいえぬデイン王国はまとまっていた。それは、誰の目にも明らかだった。
誰の目にも明らかに人心を集めているのはミカヤで、そうではないところで、ペレアスは足掻いていた。王宮騎士ジル、傭兵ツイハーク、そしてタウロニオ、ミカヤ。それ以外で、実際にペレアスが何をしていたのか理解している人間は、そう多くはないだろう。
出来ればその心は、すべてから離れ、平穏にあって欲しい。そう零した傭兵らしい風情のツイハークに、ペレアスは曖昧に笑みを返しただけだった。
そしてそれは、何もツイハーク一人の感覚ではない。ジルも、タウロニオも、同様であった。
好きなのだ、この若き王が。誰よりも国を思い、民を思い、その為に己自身を捧げてまでデインという国のためにあろうとするこの王が、タウロニオは好きだった。だがそれも、当の本人より王位を退く、という意志を聞いたからに他ならないのかもしれない。
「望むことを、望んでもよい。この国は、そういう国に生まれ変わる……」
「陛下」
「言うな。私が道を違えた事は、周知の事実だ。愚かだった。国を導く者として未熟でありながらそれを改められなかった。それは十分に断罪されて然るべきな罪だ。いくら足掻き、努力したところで、過去の間違いを容易に消せるはずもない」
それでも言葉や顔色には自虐の念は感じられず、どころかペレアスの表情は清々しい、この、早春の晴れ渡る空のようだった。
何かを言いかけた。けれども言葉が続かない。あまりにも、その表情は全てを物語りすぎていた。
「この国に、ヘンギストの血は途絶えた。ならば、真に民が望むものこそ、玉座には相応しい」
そのペレアスの考え方は、どこかでラグズ的だとタウロニオは思った。フェニキスの鷹王の影響が大きいのだろう。短期間のうちに、見違えるように変化したのも、恐らくはあの豪放なラグズ王の姿を目の当たりにしたからに違いない。それから、セリノスのリュシオン王子。繊細な、だが頑固で向こう気の強い鷺の民。クリミア宰相ユリシーズや、ガリアのライという青年とも、ペレアスは多く言葉を交わしていた。
「暁の巫女、ですか」
老将の呟きに、ペレアスは満足げに頷く。タウロニオ自身もまた、ミカヤの事は好きだった。理屈ではない。戦闘指揮官としての彼女は、素人も同然だった。愚かですらあった。彼女自身は、何の変哲もない、ただ一心にデイン王国を愛する、どこにでもいる女性だった。
それでも、何故だか彼女を見捨てる事など、できなかった。タウロニオだけではない。どの将も、兵も、傭兵の類いですらも、彼女の不可思議な魅力に惹かれ、寒さと絶望感を忘れ、戦った。
死んでも尚彼らが讃えた名は、現国王のものではなく、ミカヤの名だった。
「ミカヤ、彼女は不思議なひとだ。彼女という存在を目の当たりにすると、理屈ではなく安堵する。何故、デインの民が彼女を欲したのか…そして、何故彼らは奮い戦うことができたのか。それは、目に見えて彼らを奮わせる存在がいたからだ。彼らが戦えた理由は、王が王家として在るから、というわけではない」
「ですがそれを可能となされたのは陛下です、そして陛下を認めた議会と教会ではありませんか」
「それは、非常時だったからだろう」
「いいえ。民に仕事の斡旋をなされたのは陛下です。商人たちを呼び込み市場を活性化させたのも、陛下です。デインという王国を破綻させなかったのは、ミカヤ殿ではありません」
言葉を容赦はしなかった。きっぱりと、タウロニオは告げた。意味のないやりとりをしている、そういう気もないわけではない。ペレアスの決断が変わることはないだろう。そしてそれを、タウロニオも間違いだとは言い切れない。
「だが愚かな約定を結び戦を呼び込んだのは他でもない、この私だ」
それも、結果だ。何れに責があるのかなど、明確ではない。ペレアスが未熟であったのが罪であるというのならば、未熟な王を未熟と知りつつ放置した周囲もまた罪人に違いない。ペレアスは、アシュナードなどとは違う。そういうことは、皆が理解していたはずだ。
「お逃げになるのですか」
自責の念、それもあるだろう。そういう罪を、ペレアスは一人で被る気でいた。それは、それでよい。だが、では、残された周りの人間は。確かにミカヤの事は好意的に見ている。が、それが王である、主君であるという感覚なわけではない。そういう目で彼女を見るには、努力が必要だろう。
「その、己が罪から、逃れられるのですか、陛下」
内心は、そうであった。だが、タウロニオは、正反対の事を言っていた。何故かは、わかっていた。無意味であると知りつつも、だから内心とは裏腹な言葉ばかりを告げた。
ペレアスは、側近であった騎士の言葉を、ただ瞑目し聞いている。そよぐ春の穏やかな風の中、ともすれば眠っているようにすら錯覚するほど、その姿は穏やかだ。
「逃げはしない」
ぽつりと、一言。けれども、はっきりとした意志を感じる声だった。
「陛下?」
「逃げはしない。全てを告白する。イズカの罪、ベグニオンの謀略、血の誓約――僕自身の愚かな所業を含めて、全てを」
全てを。それは、ベグニオン帝国に、是非を問うということになる。皇帝は以前ほどの権威を持ってはいない、デインで彼女という存在は、そう大きくはない、だが――とっさに浮かぶ懸念を、タウロニオは否定した。そういうことを、ペレアスが考えなしに言う訳がないのだ。その証拠に、怪訝そうな表情をしているタウロニオに、ペレアスは緩やかに頷いてみせるのだ。
「それで、改めて全ての民に問う。彼らが望むべき王を――いや、王などではないかもしれないが、彼らが欲する自分たちの指導者を」
民が望むものを。彼らが生きる国を。タウロニオと出会った時からの、この青年の口癖だった。誰から、どういうことを教えられてきていたのかはわからない。どこで、何故そういう思考を身につけたのかも、タウロニオは知らない。ペレアスも、自らのことを殆ど語らなかった。そのことに対して、疑問を抱くこともなかった。
「それは……」
言葉にならない。そういう思いを、初めて抱いた。年下の、それもまだ未成熟といってよい青年を、タウロニオは初めて大きなものなのだと感じた。以前とは、言葉の説得力が違っている。もっともそれは、まだ完全ではない。だが、深い色合いを湛えた瞳が見据える先の光景を、タウロニオは見てみたいと思った。
「そこで彼らが誰を選ぶか。改めて問うまでもないかもしれない。けれども、彼らが選ぶことに意義がある。そう思わないか、タウロニオ」
やはりペレアスは変わった。以前から持っていた思想を、他国の王やラグズなどと交わることで、昇華させている。そして、それを確固たる信念としている。死ぬ気などはない、繰り返しペレアスが呟いていた言葉の意味を、タウロニオはようやく気づけたような気がしていた。
「それに、彼らには必要なんだ、戦の悲しみを、喪失の憤りをぶつけられる相手が」
ペレアスは、自らを哀れな王にする気はないようだった。そして、デインの民は、憐れみを請うような人間を厭う気質もある。他ならぬペレアス自身がそうであった。
「帝国元老院は事実上崩壊している、皇帝は各国に好意的だ。馴れ合う気などはないが、あえて敵対することは無益だ」
「一生、彼らの憎しみを受け続けると、そう仰るのですか」
思わず語気は強くなった。だがペレアスは、懸念する騎士に笑って見せた。
「いいや。そういう考え方をしていたこともある。けれど、それでは駄目だと教えてくれた友人がいたんだ」
「……ラグズ奴隷解放軍、ですか」
「トパック、そしてムワリム。あの二人との出会い、彼らと交わした言葉の数々。そこに、僕は多くのものを得ることが出来た。デインという国が歩むべき方向も、知ってゆかねばならない事の数々も」
「ですが、如何に女神の思召しがあれど……そう簡単には、ゆきますまい」
「何れデインという国が向き合わねばならないことだ」
あの戦い以降、テリウスという大陸のまるで総意のごとく、二つの種はようやく歩み寄るという手段を得た。歩み寄ることに、意義を見出したのだ。
そこに、古の女神たちの介入があったか否かなどは知る由もない。それでも、以前の軋轢憎悪が嘘のように互いが互いの存在を、存在として認めるということが出来た。ノクスの森で戦いの最中に石になり、目を覚ました後、多くの兵がそう漏らしていた。それはやはり女神の奇跡なのだといわざるをえまい。
とはいえ、長年のしこりともなれば当然反発も多くあるのだが、何よりもベグニオン帝国皇帝サナキが、暁の巫女ミカヤと共に全土に宣言を出した。
彼女は己の存在の影響力というものを、良くも悪くもあの戦いの最中に知ったのだ。そして、争いあった者同士が手をとるという意味。
そして、ゴルドア王クルトナーガがすぐさまそれに同意してくれたのも大きかった。
ゴルドア王がベグニオンを訪れるという前代未聞の出来事があって久しい。ゴルドアという国が動く意味は、皇帝の勅命という名義同様、非常に重いものだった。そして、その直後にデインが国家として賛同の旨を示してしまえば、反発する国家などはなかった。
皇帝の威光が多くは及ばぬデイン国内では、ミカヤの名が良い方向に働いた。そういう提案をしたのは、ほかならぬミカヤ自身だった。
「確かに、それは…ですが」
デインにそれでも根強く残る反ラグズ感情の矛先を、そして戦争で生み出された多くの怨嗟をすべて引き受ける。
簡単なことではない。命を狙われることもあるだろう。何よりも、先の戦で肉親を失っているものは、大勢いるのだ。
「北海に浮かぶ孤島の牢獄、あそこは、王城並みかそれ以上の堅牢で決して罪人を逃れさせないことで有名だな」
タウロニオは言葉を失った。ペレアスはタウロニオの想像を肯定する様に頷く。
デイン王国が面する北海は、船乗りの間では難所として有名だった。まして長い冬の時期は航海などはほぼ不可能といってもよい。その北海に浮かぶ孤島には、代々重大な罪を犯したもの、政治犯などが収容されていた。
確かに、ペレアスが言うとおりの方法をとれば、ペレアスは王族を騙った政治犯ということになり、間違いなく北海の牢獄送りだろう。すれば、なるほど「命」だけは少なくとも保障される。警備や設備というより、立地条件から北海の牢獄は侵入も脱走も不可能な場所として有名だった。
「……そう、ですか」
ペレアスという青年は、変わっていた。以前のように、青臭い理論を平然と言う。夢のようなことを、当然のことだと主張する。だが、同時に老獪さと強かさも身に付けていた。そうしなければならなかったのは、ペレアス自身なのだ。彼が望み、望んでそうなったのだ。
だが、タウロニオ自身はそれで納得できないのだ。おそらく、そのことは一生折に触れ思い出すであろうと思う。古い傷跡のように、冬になれば疼くであろう。
「タウロニオ。色々と済まなかった、そして、ありがとう」
タウロニオは面を伏せる。騎士の礼をした。
「これからも、頼む」
「おおせのままに」
変わらぬタウロニオの応じに、ペレアスは屈託のない笑みを見せた。