対するは、ベレス率いる同盟軍。一度はフォドラの覇権を手に入れかけた帝国も今はその勢いもなく、宮城に同盟軍が迫る勢いだ。
皇帝エーデルガルトの傍に仕えるものも皆その命を皇帝の為に散らし、そのエーデルガルトの命も明朝には尽きるかもしれない夜を迎えていた。
恐ろしいほどの、静寂。
煌びやかであったはずの宮城の執務室は、けれども独りにはあまりにも広すぎて、そして静かすぎた。
そこに、控えめなノック音が響く。
「入っていいわよ」
こんな時間に自分のもとを訪ねる人間など、限られていた。いっそ暗殺にでも来てくれれば、などと埒ない事すら考え、その想像にエーデルガルトは唇を小さくゆがめた。まったく、冗談になっていない。
「エーデルちゃん」
「……ドロテア。あなたが、こんな場所にいる必要は、ないと言ったのに」
制するようなエーデルガルトの声を無視して、ドロテアはエーデルガルトに近づく。彼女はエーデルガルトが皇帝になってからも、変わらず学友時代のように「エーデルちゃん」と親しげに呼び、女官としても傍近く仕えていた。エーデルガルトが心を許せる――枢機卿ヒューベルト亡き今、唯一といってもいい人間だった。
「ペトラちゃんが心配して、今も周辺を警邏してるわ。もう、そんな必要もないのに。私は、……その」
「ふふ、ありがとう、ドロテア。でも私なら大丈夫よ。いつか、こんな日が来ることを……私は望んでいたのかもしれない」
「望んでいたなんて、いわないで」
「ドロテア?」
「そんな、ことは……死ぬことを望むだなんて、いわないで」
ドロテアの声が震えていた。そっと優しい、武器を持つことを厭っていた歌姫のたおやかで繊細な腕がエーデルガルトの背後から胸元にかけて回される。伝わる温もりと鼓動が、柔らかい記憶を思い起こさせて、エーデルガルトは彼女の手に己のそれを重ねた。きゅ、とドロテアの手が握りしめられるので、その手ごと包み込んだ。
「覚悟はできているの。それにね、あなたやペトラが最後まで私の傍にいてくれたこと、とてもうれしく思っているのよ」
「エーデルちゃん……エル……」
見ればドロテアの美しい肌を涙が濡らしていた。その涙をぬぐうように手を頬に添えて、エーデルガルトは微笑む。
驚くほどに、今の自分は冷静だ。きっとそれは、ドロテアが傍にいるからだ。
情を交わしたわけではない。ただ、彼女の傍らは心地が良く、だから彼女を側仕えにした。
「ふふ、そう呼んでくれる人は、もう、あなただけ」
「……エル、……好きよ。大好き」
「知ってるわ」
触れる唇は柔らかく、濡れていた。涙で揺れる歌姫の翡翠の宝玉が、とてもうつくしいと思う。戦を厭うはずの彼女は、けれどエーデルガルトのためというだけで、かつての学友と戦うことを躊躇しない。その強さに、確かに、救われていた。エーデルガルトは、彼女のようにひたむきな感情を向けてくる存在を、知らなかった。幼いころから傍にいて当たり前だったヒューベルトとは違う、けれども同じくらいに大切な存在だと、思う。
失いなくなかった。
けれど、ドロテアは愛するエルのために戦うことを選んだ。選ばせたのは、自分だ。矛盾する想いを抱えながらも、エーデルガルトはドロテアに微笑む。
「私もあなたが好きよ、ドロテア」
そう言うとドロテアの手を取り、寝台へと導く。ただ、最後の晩くらいは、人のぬくもりに触れて眠りたい。そんなささやかな願いをかなえるために、エーデルガルトは歌姫の手を取り、そしてドロテアは皇帝の衣を脱ぎ捨てたひとりの少女の手をとった。
そこには、たしかに、ひとときではあったが、安らぎと温もり、そして幸せな時間が存在していたのだ。